9/12 ダーバン会議20周年記念シンポジウム の報告が『週刊金曜日』に掲載

9月12日開催のダーバン会議20周年記念シンポジウム「入管法のルーツはレイシズムーーダーバン会議を活かす」の報告が、『週刊金曜日』に掲載されました。以下に許可を得て転載します。

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 (『週刊金曜日』2021108日号(1348号)2830頁より許可を得て転載)

反レイシズム掲げた国連・ダーバン会議から20年

問われる国民国家、

通底する入管体制と植民地主義

藤岡美恵子

 

アパルトヘイト(人種隔離政策)に終止符を打った南アフリカのダーバンで今から20年前、レイシズムに反対する国連主催の世界会議=ダーバン会議が開かれた。国連史上初めて、植民地時代の奴隷制が「人道に対する罪」であったことを認め、現在も続く人種差別を含むレイシズムが歴史的に植民地支配に起源をもつことを明確にした会議だった。採択された宣言や行動計画も画期的な意義をもつものだったが、そのフォローアップはこの20年間、ほとんど行われてこなかった。なぜなのか。同会議の成果は、ヘイトスピーチや外国人差別が横行する現代社会で、どのような意味を持つのか? 反差別国際運動に長年関わってきた藤岡美恵子さんに報告してもらった。

 ダーバン会議のフォローアップの困難さは、実は会議の最中から既に顕在化していた。掲げられたテーマが、現代の主要な国々が依拠する「国民国家」体制の根本に横たわる不正義の問題だったからだ。すなわち、各国が植民地支配と人種主義を断ち切れないままに国民国家を存立、存続させていることが批判にさらされた。

 会議の中では、旧植民地宗主国側の多くが植民地支配と奴隷貿易の被害に対する補償責任を頑として認めなかった。今日の人種差別が歴史的にどのように形成され、奴隷売買から利益を得たのはだれか、植民地支配の被害は救済されたのか――などの根本問題が問われたことへの反発からだ。パレスチナ問題も絡み、米国とイスラエルの代表が会期中に退席する騒ぎも起きた。

 本会議の会期は2001年8月31日~9月8日。会議終了直後には米国で「9・11」事件が起き、これをきっかけに始まった米国主導の「対テロ戦争」や、新自由主義によるグローバル経済の席巻により、格差と差別を孕むレイシズムは、むしろ世界各地でより一層強く顕現してしまったといえる。

 こうした傾向は日本も例外ではない。会議20周年を機に、あらためてこの「未完の会議」の意義を振り返り、日本社会の差別構造が孕む根深い問題を明らかにしようと、会議に参加したNGO活動家や研究者が集まって今年4月、「ダーバン+20:反レイシズムはあたりまえキャンペーン」を立ち上げたのだ。

入管体制と植民地主義

 今年912日、「あたりまえキャンペーン」による「+20記念シンポジウム」が開かれ、「出入国管理体制とレイシズム」を主要テーマとして取り上げた。

 名古屋入管収容中のスリランカ人女性、ウィシュマ・サンダマリさんが著しい体調の悪化を訴えていたにもかかわらず、治療らしい治療も受けられないまま3月に亡くなった事件は多くの人々に衝撃を与え、国会に上程されていた入管法「改正」案の廃案の一因となった。筆者も参加する「あたりまえキャンペーン」は、ウィシュマさんの事件を日本の入管体制が抱える問題点を凝縮したもの、レイシズムに深く関わる問題として理解すべきだと考えている。

 出入国管理は「すべての外国人を対象にするものであり、そこにレイシズムは関係ない」と考える人も多いだろう。だが、日本の入管体制の歴史をたどると、そこには植民地支配の痕跡がはっきりと残され、現在に連なるレイシズムが色濃く表れているのが分かる。

 戦後から現在に至る入管体制は植民地時代の朝鮮人管理制度に源泉がある。植民地支配下の朝鮮人は同じ日本国籍者でありながら戸籍で日本人と区別して管理され、移動の自由を制限された。

 この差別政策は、戦後、旧植民地出身者から国籍を奪い入国管理体制に組み込むことで維持された。シンポジウムで基調講演を行った高谷幸・東京大学准教授(移民研究)は「帝国から国民国家への転換におけるゲートキーパー(門番)」としての入管体制には戦前からのレイシズムが引き継がれていると指摘した。

 いうまでもなくレイシズムは「我々」と「彼ら」を区別してその区別を本質化し、かつ「彼ら」を劣った者とみなして支配や搾取を正当化するイデオロギーや実践であり、植民地支配を正当化する機能を果たしてきた。では、植民地を放棄した日本は戦前の入管体制(=朝鮮人管理体制)のレイシズムから脱却したのか。それが高谷氏が投げかけた問いである。

 その問いを、現代日本社会における旧植民地出身者とその子孫の扱いという側面から考えれば、答えは歴然としている。日本は戦後一貫して、何世代にもわたり日本に住み続けるこれらの人々を入管体制で管理してきた。 

 日本政府は在日朝鮮人の人権を積極的に保障するような政策をとってこなかった。彼らへのレイシズムは昨今取りざたされるヘイトスピーチの問題だけではない。むしろ、政府による差別政策の継続の問題として捉えるべきなのだ。

国民/外国人の区別

 シンポジウムではこの問いをさらに突き詰め、国民国家が原理的にもつ差別に議論が及んだ。「国民主権」原則の上に成り立つ国民国家体制では、外国⼈の出⼊国管理は国際慣習法上、主権国家の⾃由裁量だと考えられている。

 つまり、入管行政とは国民主権の執行部隊であり、ゲートキーパーという位置づけだ。平たくいえば入管行政は「我々国民」に代わって外国人の処遇にあたっているというわけである。だが、入管行政によって法の執行の対象となる外国人はこの国において主権を持たない。つまり、法や行政に間違いがあってもそれを自分たちの手で正すことはできない。

 シンポジウムに登壇した稲葉奈々子・上智大学教授(社会運動研究)の言葉を借りれば、外国人とは「国家によって普遍的人権を守られない人々」であり、「権利をもつ権利を否定された人々」(ハンナ・アレント=ドイツ出身の哲学者)なのである。入管に収容されている非正規滞在者は「日本にいてはいけない人」「存在しないことになっている人」であり、その声を聴く必要がないとみなされている人々だ。そうした人々が、ハンガーストライキや自傷行為によって多くのメッセージを外部に対して発信しているのだ――と稲葉氏は報告した。

 レイシズムが「我々」と「彼ら」の区別を本質化し、「彼ら」への支配を正当化するものであるなら、国民/外国人の区別による外国人差別、ウィシュマさんやその他多数の入管に収容された人々に対する著しい人権侵害は、レイシズムと定義すべきものであろう。ところが、現実には外国人への差別はレイシズムとは捉えられずに正当化されている。

 だが「国民」と「外国人」の区別は、そのような苛烈な「区別」=レイシズムを正当化しうるのか? そもそもその区別は自明のものなのか? 

 高谷氏は「日本人とは、外国人を差別することで初めて可能になる自己画定の様態」という酒井直樹・米コーネル大学教授(日本思想史)の言葉を引用。想像の産物でしかない「日本人」という概念が成立するのは、外国人との間で区別を設け、外国人を差別することで初めて可能になること、近代国民国家においては国民/外国人という区別が「自然化」されていることに注意を促した。考えてみれば、日本国憲法の前文及び第一条に明記された「国民主権」も外国人差別の根拠規定となっている。

 私たちがこの自然化された区別から自由になることは容易ではない。しかし、外国人差別をなくすためには、そこまで踏み込んで考える必要があるのではないか。

 まずは、正規滞在であれ非正規滞在であれ、移民や外国籍者を私たちと同じ場所で働き、学び、子育てをし、地域で暮らす者として捉えることから始める▽「社会」とはそういう人々が分かち合い、助け合うことで成り立っていることを認める。▽その構成員は誰もが人間としての尊厳が守られ、人権を保障されなくてはならないことを確認し、共通認識とする――そこから外国人というだけで普遍的人権を侵害してもよしとする現在の入管行政を少しでも変えていけるのではないか。

日本政府と社会の姿勢

 日本政府は外国人を対象としたものに限らず、「日本には人種差別は存在しない」との姿勢を取り続けている。「人種」という概念を狭く捉えた立場だ。差別を受けている当事者からの訴えにも真摯に耳を傾けることをせず、積極的に差別是正措置をとることもしてこなかった。ウィシュマさん側の請求で開示された医療・処遇に関わる約1万5千頁の文書がほぼ「黒塗り」だったことも、そうした姿勢を象徴している。ダーバン会議での日本政府のステートメントでも、人種差別が制度的あるいは歴史的構造をもっていることにふれることはなく、一人ひとりが差別意識から自由であるかを問う必要があると述べるだけだった。

 日本政府がそうした姿勢を取り続ける根本原因の一つは、植民地支配に対する反省の欠如にある。その植民地支配とは敗戦により放棄した植民地だけなく、アイヌや琉球民族に対する支配も含む。近代日本国家の形成期まで遡って考える必要があるのだ。日本国憲法の問題でいえば、外国人だけでなく先住民族、マイノリティ、外国人について何一つ言及していないため、社会的にもマジョリティだけの「単一民族国家」幻想が再生産されている。

 問題は政府だけにあるのではない。入管行政の姿勢を背後で支えているのは、単なる入管法上の手続き違反をあたかも深刻な犯罪であるかのように捉え、違反者を日本の境界外に追放することを当然視する日本社会だ。だが、ウィシュマさん事件では多くの市民が抗議の声を上げた。これはダーバン会議から20年後の日本における一つの希望かもしれない。この声をもっと大きくして、反差別があたりまえの社会にするための一歩とし、移民、滞日外国人の人権保障制度を作る必要がある。それは日本社会の構成員、とりわけマジョリティである日本人の責任だ。

 

(注)「ダーバン+20:反レイシズムはあたりまえ宣言#1――国家の都合ではなく人権を優先する移民政策・入管制度を」を参照https://durbanplus20japan.blogspot.com/2021/09/blog-post.html) 

ふじおか みえこ・ダーバン+20:反レイシズムはあたりまえキャンペーン共同代表。法政大学非常勤講師。元反差別国際運動(IMADR)事務局次長。ダーバン会議では日本のNGOの連絡組織「ダーバン2001」の事務局次長を務めた。

 

 

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